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2005年06月30日

●悟浄嘆異-沙門悟浄の手記-

・htmlで読む
・ebkで読む
※これらのファイルは青空文庫からダウンロードし、作成しました。
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 「悟浄出世」であらゆるものの存在に疑問を持ち、結局確かな答えがでずに観音菩薩の教えによって地上にでた悟浄の続編である。
 ここでは、三蔵法師や孫悟空など、西遊記でおなじみの面々とともに旅をしていくわけであるが、悟浄とことごとく性質の異なる孫悟空の描写が、大変面白い。
 自己に対してゆるぎない信頼をもつ孫悟空は、およそ悟浄とは性格的にあわないような感じであるが、そここそが悟浄にとってもっとも足りないところである。無論悟浄もそれを知っているのだが、だからといってすぐにどうにかできないというところが彼らしいし、自分が同じような立場だったらきっとそうだろうと考えると、非常にリアルである。
 この話で登場する三蔵法師は最弱であるが、本当の強さとはどういうことか、読むと考えさせられる。 
 一番印象に残っているところは、猪八戒が生を楽しむさまを見て、悟浄が「楽しむにも才能の要るものだな」と思うところである。楽しむことにも才能ってあるのか、と初めて読んだ当時は思った。

2005年06月13日

●悟浄出世

・htmlで読む
・ebkで読む
※これらのファイルは青空文庫からダウンロードし、作成しました。
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 ここでは、中島敦の各作品について私の感想を書いていきたいと思う(今までは考察しようなどと大それたことを考えていたのだが、だから更新できなかったのである)。
 ebk(エキスパンドブックブラウザ)での形式は使っている人がいるのかどうかはわからないが、一応おくことにした。
 ということで「悟浄出世」であるが、これは私の好きな作品のひとつで、本好きの100の質問などにも書いているのでご存知の方もおられると思う。
 あらゆる存在というものに疑問を持った悟浄(西遊記の沙悟浄であるが、私はどうしても岸部シローを思い出してしまう)の孤独な遍歴である。人間であれば、そういった悩みはストレスとなったりするのみであろうが、彼ら妖怪の悩みは肉体的な苦痛をももたらすので、どうしても解決しなければならない問題なのである。
 様々な遍歴の末に、悟浄の悩みは解決するどころか、かえって答えのでないものになっていくのだが、そこで悟浄はふと、「自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだ(作品から引用)」ということを理解するのだが、この辺りは最も印象に残っている部分である。この文章を読んでから、何か壮大なことを考えるとき、自分にもこういうところがあるのではないだろうか?とふと思うようになった。
 長い作品ではないけれど、この作品は今でもたまに読む。

2005年06月12日

●年表

出来事 作品 写真
明治42年 (1902)
5月5日、東京市四谷区(現在の新宿区)に生まれる。父田人は教師、母千代子も教員であった。祖父の中島撫山は漢学者である。だが普通私達が想像するような漢学の教育を幼少から受けるということはなかったらしい。
幼少のころ
幼少のころの中島敦
明治43年 (1903) 1歳
母千代子が離縁される(理由は不明)。敦は生母の面影も知らず育つことになる。母のぬくもりを知らないことが多かれ少なかれ彼の作品に影響を与えていると私は考えている。
大正3年 (1914) 5歳
父が再婚する。敦はこの継母との折り合いがあまりよくなかったようである。
大正5年 (1916) 7歳
四月、奈良県郡山男子尋常小学校に入学する。
大正7年 (1918) 9歳
五月、父田人が静岡県浜松中学校の教師となり、それに伴い七月静岡県浜松尋常小学校に転入学する。
大正9年 (1920) 11歳
父田人が朝鮮竜山小学校に転勤し,朝鮮京城竜山小学校に転入する。
大正11年 (1922) 13歳
竜山小学校を卒業し,京城中学校へ入学。
大正12年 (1923) 14歳
三月に妹の澄子が生まれ、四月第二母が死亡する。
青春期
一高時代の中島敦
大正13年 (1924) 15歳
四月、三番目の母を迎える。
大正14年 (1925) 16歳
父が竜山中学校を退職し,十月から関東庁立大蓮第二中学校へ奉職する。
大正15年 (1926) 17歳
四月、中学の四年修了より第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に抜群の成績で入学する。
昭和2年 (1927) 18歳
春、肋膜炎を患い一年休学する。
「下田の女」
昭和3年 (1928) 19歳
このころから喘息の症状が見え始める。東京青山の親戚の家に寄寓する。
「ある生活」 「喧嘩」
昭和4年 (1929) 20歳
文芸部員となり『校友会雑誌』の編集に携わるようになる。このころからもしかしたら小説家を志していたのかもしれない。
「蕨・竹・老人」 「巡査の居る風景」
昭和5年 (1930) 21歳
伯父中島端(斗南先生)死去。このころに永井荷風、谷崎潤一郎の作品をほとんど読む。
「D市七月叙景(1)」
中島敦
教科書などによく使用される中島敦
昭和6年 (1931) 22歳
橋本たかと結婚。  
昭和7年 (1932) 23歳
八月、南満州、中国北部を旅行する。秋、朝日新聞社の入社試験をうける。
「斗南先生」 「療養所にて」
昭和8年
(1933)
24歳
四月、横浜高等女学校の教師となり、横浜市中区に居住を定める。  
昭和9年 (1934) 25歳
「虎狩」を書き、「中央公論」に応募するが選外佳作となる。秋、喘息のために生命を危ぶまれる。
「虎狩」
昭和11年 (1936) 27歳
四月、第三母死去。このころ韓非子やアナトール・フランスなどを愛読する。
「狼疾記」 「かめれおん日記」
昭和12年 (1937) 28歳
長女正子生まれて三日目に亡くなる。秋から喘息が悪化しはじめる。
「和歌五百首」
昭和14年 (1939) 30歳
喘息の発作が激しくなる。相撲や音楽や天文学に興味を持ち始める。
「悟浄歎異」
昭和15年 (1940) 31歳
夏ごろからスティブンスンを読み始める。また、プラトンを読んだものもこのころ。古代エジプト、アッシリアに関する文献を読み出したのもこのころである。暮れより喘息の発作にみまわれ、週1日か2日勤務となる。  
李陵初版
「李陵」の初版本
昭和16年 (1941) 32歳
喘息の発作がひどいため転地療養を真剣に考える。三月末に横浜高等女学校を休職するが、事実上の退職となる。六月、知人の斡旋で国語編修書記としてパラオの南洋庁内務部地方課に勤務することとなる。官吏生活を嫌っていたようだが、出張は好んでいたようで、息抜きとしてしょっちゅう出張するようになる。
「山月記」 「文字禍」
昭和17年 (1942) 33歳
喘息によかれと思って行ったパラオの気候が、実はかえって悪化させるものだと分り、内地勤務を希望するようになる。三月帰京するが、肺炎を患う。七月、南洋庁を辞し、作家になる決意をするが、十一月より喘息の発作が激しくなり、心臓衰弱のため死去する。
「光と風と夢」 「悟浄出世」 「弟子」 「幸福」 「夫婦」 「鶏」

 中島敦の年表である。大体は中島敦の著作を見れば載っていることなのだが、載せてみることにした。以前中島敦のブログがあったときに載せたものと同じものである。テーブルのタグが使われていてここにエントリーすると色々と修正しなければならないと思っていたので、箇条書きにしようかとか考えていたが、表形式で見たほうがわかりやすいかと思ってこちらをそのまま載せることにした。
<参考文献:「李陵・山月記 弟子・名人伝」角川文庫クラシックス(写真も同上)>

●はじめに

 ここがまだブログでないころから存在していて、唯一有用なコンテンツであった中島敦関連のページをカテゴリを新たにして作ることにした。別ブログにしたときには、本家の更新ばかりしていて全く更新しなかったので、こちらのほうで更新するようにしたからにはきちんとコンテンツとして機能してくれるといいなぁ・・・と思っている。
 中島敦の作品は「山月記」が最も有名で国語の教科書に載っていたこともあるので、ご存知の方も多いと思うが、中島敦というのは夭逝してしまった作家で、その早い死は非常に惜しまれるものだった。
 幸いなことに青空文庫には中島敦の作品が沢山あるので、それらを利用させてもらいつつ、各作品の感想などを書いていきたいと思う。このブログ上で読めるようにしようかと思ったときもあったが、それは長くなりそうだし、メリットがあるかどうか微妙なのでそれは現在考え中である。